2021-08-10
にしゃんたが学会で「招待講演」@仙台の報告です。
にしゃんたは、「涙道・涙液学会」にお招きただき、お話いたしました。「涙道・涙液学会」にちなんでいただいたテーマは「お涙頂戴いたしますーにしゃんたの日本奮戦記!」です。この度のありがたいご縁に感謝いたします。
(当日のレジュメは下記の通りです。)
「お涙頂戴いたしますーにしゃんたの日本奮戦記!」
私は英国領セイロンで生まれた。沖縄が本土返還された72年にスリランカと改名されたインド洋に浮かぶ 島嶼国である。
私はこの国を「世界一親日国」と宣伝している。それは「世界一の親日家」がこの国にいるからだ。彼の名はJ.R.ジャヤワルダナで、国の大統領になったような人物である。1951年に開かれたサンフランシコ講和会議がJ.R.が親日家として世界に知られるきっかけとなった。自ら対日賠償権を放棄し、「憎しみは憎しみによってではなく、愛によってのみ消える」とブッダの言葉を引用して日本の真の自由と独立の支持を世界に訴えた。
当時の吉田茂総理はその言葉に涙し、「この恩を忘れてはならぬ」との言葉を後世に残している。J.R.は生涯日本を愛し、日本の戦後復興を見守り続け、死んだ後角膜を日本にプレゼントした。今も日本人の目を通してこの国を見続け、嬉し涙と悲し涙を日本人と共にしているに違いない。
私は、J.Rに「本当に素敵な国だ」と直に聞き、日本への憧れを抱いた。見たことのない日本を見せてくれたのは日本のODAで建てられたテレビ局で放送された「おしん」だった。視聴率が90%ほどあった「おしん」をみんなで、時には涙しながら観ていた。
憧れの日本に来る私の夢が叶ったのは高校生の時だった。来日時は親父が家を抵当に入れて借りたお金で買ってくれた片道切符と7万円が全財産だった。日本に着いた87年はバブル真只中で、私は雄琴温泉で布団敷きとお風呂掃除の仕事をしながら日本語を覚えて大学に入った。
大学は学部総代で卒業して就職願うも、国籍条項と膝の障がいが原因で上手くいかなかった。好きになった日本に残るための手段として消去法で大学院に進んだ。気がついたら経済学の博士号をもらい大学教授になっていた。15年ほど前に日本の国籍をいただき、しばらして日本で結婚をして子どもにも恵まれた。
最近になって日本に来てずっと忘れていた大切なことに気が付いた。涙することだ。私は来日以来、自分の感情を殺していたに違いない。最近よく涙をする。嬉し涙も悲しい涙も。少しは人間らしくなったと我が身を振り返る。
私はスリランカ内戦で友達が死ぬ中で、日本に来られ、優しい日本人に衣食住を分けて与えられ、学校にも行かせてもらった。日本で過ごした34年は、生かされたという気もちが強い。社会に対して恩返しをしたい気持ちが芽生えるのは極自然の流れでもあろう。私の使命は他でもない。世の中の悲しい涙をなくすこと。そしてみんなで共に笑い、嬉し涙を流す世にすること。
とてつもない大きな夢ではあるが、一隅を照らすような者でありたいと願う。
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